桜梅桃李





北海道、寒すぎです。。私の住んでいる地域の周りでは雪が降っているところもあります。5月にこの気候・・困ったものです。早く桜が見たいですが、結構ずれ込むんじゃないかなーと思っています。
上記の写真は2年前の4月下旬の北海道。今がよっぽど寒いことがよくわかります。公園の芝生もまだ全然緑になっていません。この頃は既に生い茂っていました。


前の投稿からの続きですが、『目標を立て、行動することで、様々な問題にも突き当たる』。
苦難の連続と思われるそれは、成功するための貴重な経験。だから諦めてはいけない、と今は思っています。
もしか、『最終的に達成できなかった、自分の思うゴールとは違ってしまった』ことになっても、諦めず行動していれば、その時は自分に対して納得できる気持ちに変わっているのではないでしょうか。
もっとも後悔することは、「あの時行動できなかった自分」だと思うのです。
自分を信じて進み続ける事の方が結果が違ってもずっと、心が晴れやかな気持ちになると思います。

その為には、自分の気持ちは勿論大切ですが、仲間がいることが大きな励みになると思います。
一人で戦っているのは辛いし、くじけやすいし、方向を間違って気がつかない時もあります。
一番負けやすい状態が、「独りでいること」なのかもしれませんね。


実は二月にとっても衝撃的な事がありました。しかしながら、うすうす色んな事に疑問を感じていた時だったので、来るべくして来た問題でもある気がしていました。多分、自分でもいつかそうなってしまうんじゃないかと気づいていました。そして結局は自分自身も未熟だったので、うまく立ち回る事ができず、招いてしまった出来事でもあると思っています。

冷静に受け止めている自分もいましたが、実際は心からショックでした。その為か、結構重めの風邪になり、突発性のめまい症も引き起こしてしまいました。今でもたまにめまいがあります。
それから今まで我慢していた体調があぶり出されるようにでてきて、内臓(と恐らくストレス)からくる腰痛になり、どんな体制でも眠る事ができない位痛く、当然腰はガチガチに固まって動けなくなり、二日おきに鍼灸治療院に通院していました。
その時に出会ったのが、近所の治療院です。
それで、「結構、心弱いんじゃないの〜」とやんわりストレスについて指摘されていました。どこかわからないけどその部分の症状が出てたんでしょうね。
先生に説明はしませんでしたが、精神的に参ってるのは自分で分かっていたので、言うならばそこについて指摘されたんでしょう。すごい。(笑)


それでも、心は必死に「なんとかしたい、なぜこんなことになるんだろう。もうこんなことにならないように改善したい」と、『人間関係』というテーマに焦点をあてて、本を読んだり、調べたり、掘り下げて考えたりしていました。

二ヶ月位経っても体調はあまり良くならず、でもずっとじっとしているわけにもいかないので、東京へ出張しました。
その時に、沢山の人のやさしさに触れて、自分でゆっくり考える時間も持てた(作った)のでちょっと元気になれました。その頃から少しずつ、心が温かい気持ちになれてきたような気がします。


暫くは、この理不尽とも思える問題に怒りさえこみ上げることもありました。でも、振り返ってみると風邪を引いて休む時間があったから、学ぶ事ができ、知ることができ、決意することができました。

そうして考えることで、新たな出会いもあって、現在進行形で私の心も少しずつ変わってきているような気がします。

風邪の時に知ったブログがあるのですが、そこで随分励まされ、目から鱗が落ちるような、いい意味での心地よい衝撃を受け、私の目標もまた追加されました。
ブログの内容も素晴らしいですが、そこにコメントされる皆さんの真摯な言葉が宝石のようです。
その雰囲気に感動して、悩みを打ち明ける方もおられ、それに対してまた真剣な書き込みがあります。
その言葉や状況を自分に当てはめてみたらどうだろう、と考えながら読んで学びを得ています。
あんまり素晴らしいので、同じ管理者さんが書いている二つのブログのうち、一つはほぼ全ての記事を読んでしまいました。

一つのブログで管理人さんの思考を読み解く事ができるだけでなく、コメント欄においてそれぞれの個性が光るブログの存在って、滅多にないことだし、本当に素晴らしいと思います。
管理人さんのお人柄の良さで、自然と周りに人が集まってくるのでしょうね。

仏法にこんな一文があります。

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桜梅桃李(おうばいとうり)の己己(ここ)の当体を改めずして無作三身(むささんじん)と開見(かいけん)すれば是(こ)れ即(すなわ)ち量の義なり、今日蓮等(ら)の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主(ほんしゅ)なり
(御義口伝、784ページ


〈通解〉 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李と、おのおのの当体を改めず、そのままの姿で無作三身(本来ありのままの仏)と開きあらわしていくのである。これが一切を摂(おさ)めることであり、(無量義の)「量」の義である。今、日蓮およびその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、すべて無作三身の本主なのである。



仏法は「一人の人間」がありのままの姿で、最高に輝いていく生き方を説いています。その具体的な原理として「桜梅桃李」という考え方があります。

 桜梅桃李とは、桜も、梅も、桃も、李も、それぞれ趣深く、素晴らしい特性・個性があり、それぞれの特性や個性を開花させる、ということ。人間でいえば、一人一人の人が、それぞれ他の人にはない固有の特質・個性をもっており、それらを発揮して、生かしていく、ということです。

 このことを大聖人の「御義口伝」では「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」(御書784ページ)と述べられています。

 大聖人は、“森羅万象の全てに、三身(仏に具わる法身・報身・応身という三つの側面、すなわち真理、智慧、慈悲)がもともと具わっており、妙法の働きによって、おのおのの本来の姿を改めずにそれらを顕すことができる”(同ページ、趣旨)と仰せです。

 そして、その分かりやすい譬えとして、春になると、「己己の当体を改めずして」(同ページ)それぞれ個性豊かな色形の花を咲かせる桜、梅、桃、李の姿を挙げられています。



さらに仏法では「自体顕照」とも説きます。これは「ありのままの姿(自体)を、照らし顕していくこと」。つまり、「かけがえのない自分自身を正しく知り、自己の個性を最高に輝かせていくこと」です。

その上で忘れてはならないのが、多くの同志との切磋琢磨が個性を輝かせるという点でしょう。

 別の御書で大聖人は、「悦しきかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(同31ページ)と述べられています。

 ――蘭のように芳しい人格の友と交われば、おのずと良き感化を受けて、麻のように真っすぐな心になり、わが生命を律し、高めていくことができる――。

 つまり、良き人々に触れていく中で、自分自身が磨かれていくのであり、その人間の中で錬磨されてこそ、「自分らしさ」に気付くことができるのです。





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まさに、そのブログが桜梅桃李であり、自体顕照の姿なんだな~と感じています。


こうした感動の気持ちを持てたのも、全ては「理不尽な出来事があったから」です。
この出来事がなく、順風満帆だったら、そのブログにも出会わず、新たな決意もなく、新しい出会いがあっても完全にスルーしていたはずです。
そんな事を考えるととても恐ろしいことです。だから私は結局その出来事から成長できました。

やっと、前に進む決心が作れそうな気がしています。
だから誰にも言えなかった事を、ここに書けたんだと思います。
私が私らしく輝ける人生を、自分で創っていく。仲間達と一緒に。




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